第一章  雪の中、山の中


「由香! なにしてんの! もう時間とっくに過ぎてるわよ!」
携帯電話を取ると、親友のかえでの怒鳴り声が流れた。
「はいはい、わかってますよ〜…。だから、あと十分…」
「わかってないじゃないっ! 寝ぼけてないで、さっさと起きなさい! 今日は長谷川先輩に呼ばれてるんでしょうが!」
「えっと、なんだっけ…?」
「長谷川先輩の親戚の人がしてるって言う旅館に行く約束したでしょ」
「……あ…。今、何時?」
「十時半」
「嘘っ!? 三十分遅刻!?」
「どうせこれから準備するんでしょ…? 今からそっち行く」
はやて君は?」
「目じり逆立てて怒ってるわよ」
「任せた」
「任せられても、どうせ怒りは収まらないって」
「昼ご飯二人におごるからっ」
「本当? それじゃ、一応説得してみる」
「うん、お願い。じゃあね」
そそくさと、携帯のスイッチを切る。
そうだった。すっかり忘れていたが、これからサークルの先輩に呼ばれて行くのだった。
多分、昨日夜更かししたせいだ。
いくら私でもそんなこと忘れるはずが無いもん……と、一応自己弁解してみる。
だが、そんなことしている場合じゃない。間に合わなければ、楓の弟が暴れにくる。
一度経験があるからには、同じてつを踏むわけには行かない。
急いで身支度を始める。
冬の太陽は、すでに部屋を暖かくするほど高く上がっていた。

「由香子はなんだって?」
「年上を呼び捨てにするんじゃない! いつもの通りよ。今からあっちに行くから」
「こんな時に遅刻かよ。俺なんか学校サボって来てんのによぉ」
疾は大きくあくびをする。
「ま、代わりにお昼おごってくれるって言うから許してあげなよ。……でも本当にいいの? 学校サボっちゃって…」
「いいの、いいの。どうせ、期末が終わったらろくな事しやしないんだし」
姉弟でその辺りの話をしながら歩くこと十五分。
住宅街の真ん中のある家の前で二人は立ち止まった。
「水瀬由香子! お前は今、完全に包囲されている。ただちに武器を放棄し…」
「あ〜うるさい。わかってるって、疾君。んじゃ、行ってきま〜すっ」
言い切る前に由香子がでてきた。
「さっさと武器を放棄しろ」
「違うでしょうが」
チョップを一発入れられ沈黙する。
一歩前に出て、由香子が両手をあわせて謝る。
「ごめん、二人とも」
「昼飯」
「お願いね」
「う〜…わかってるわよっ!」

雪景色が流れていく。
博人の住む沿岸地方は全然雪が降らない。降っても積もるに至らないのだ。
自慢の海も今ではすっかり汚れてしまっていて、景観としてはこことは雲泥うんでいの差がある。
とりあえず、温泉宿に泊まる事にした。
温泉に浸かってのんびりと今後を考えるのもいいだろうと思ったからだ。
スキー場が密集するこの地帯を抜けると、温泉街がある。
この辺では、ここがいいだろうと見当をつけてきたのだ。
とりあえず、到着までは景色を堪能たんのうすることにした。
あまり都会からでたことの無い博人にとって、その雪景色は本当に新鮮だった。

温泉街の駅で降りて、遅めの昼食をとる。
高地であるこの地の気温は低く、そのせいもあってかラーメンがおいしい。
とりあえず、今日は宿を決めたらのんびりするつもりだった。
もっとも、宿を取ったらあまり出かけることも無いかもしれない。
条件を頭の中で列挙する。
まず、温泉。温泉街に来ているのだから、それなりに良いところに泊まりたいものだ。
次に、宿の感じ。うるさいところは嫌だった。
わざわざ都会を離れてきたのに、同じようなうるさいところには行きたくない。
どうせ時間はある。しらみ潰しに一つ一つ見て回ることにした。

そして回ること数時間。いつの間にか駅の近くの街を離れ、山のほうに向かっていた。
駅で手にしたパンフレットによると、この先にもいくつか宿がある。
今まで気に入った宿が無かった以上、そこまでいくしかない。
博人が一歩進むと同時に、凍えるような風が吹き付けてきた。
「うわっ、寒っ!」
思わず声に出してしまう。しかし、本当に寒い。
「いくらなんでも昼間から氷点下ってことは無いよなぁ……?」
だが、昼間と言っていられるのもそう長くは無い。冬の日の短さを考えると、本当にそろそろ急いで宿を決めなければならなくなってきた。
バスが数十メートル先のバス停に止まる。中から、対照的な二人組みがでてきた。
「おい、宗也そうや! 本当にこの道で会ってるのかよ?」
「大丈夫だ。これでも何回か来てる」
「じゃ、その地図はなんだよ?」
「念のためだ、念のため」
「ボキにはそうは見えないんだけどなぁ〜」
宗也と呼ばれた大男と、ひょろりとした男がこっちに向かってくる。
そこで気づいたが、ちょうど分かれ道だった。
この先にある、宿は登山客用であるとパンフレットに書いてあった。
もちろん、温泉もあるらしい。
だが、正面から来た二人組みこそが、どうにもうるさそうだった。
あえてうるさい所を避けているのだ。この宿も諦めた方がいいかもしれない。
そうやって、思考を巡らせていると……
「ん? 君は……」
「どした、宗也?」
「さっき列車の中で会わなかったかい?」
「えっと……」
覚えていない。景色ばかり見ていて、中の人間には無頓着むとんちゃくだった。
立っていれば目立つ大男だが、座っていてはわからなかったかもしれない。
しかもいきなり親しげに話し掛けられて戸惑う博人。
「覚えてないか。ならいいよ。ところで、泊まるところは決まっているのかい?」
「えっと……いえ…」
「それなら、うちの旅館に来ないか?」
「はぁ……」
よくわからないが、勧誘されているらしい。
「もうじきに日が暮れてくる。そうなると、寒さも一段と強くなる。他の旅館に行くにしても時間はかかるわけだし、ぜひ来てくれよ」
「はぁ、そうですか……」
こうも一方的に押されると、もう生返事を返すしかない。
「やめとけよ宗也ぁ。また男比率が上がるぜ?」
「またもなにも、お前が上げたんだろ」
「気にするな、少年。ボキは歓迎だ」
瞬時に態度を入れ替える。
「とまぁ、次郎も納得したことだし、どうだ? 静かだし、景色は綺麗だし、温泉もいいと思うし。それとも、あてがあるなら別にいいんだが」
「はぁ……」
正直、この二人がうるさくて疲れそうだ。
だが、あてが無いのも時間が無いのも確かだ。
「えっと、それじゃお言葉に甘えて……お願いします」
あまり深く考えずにそう言ってしまった。
すでに精神がまいっていたのかもしれない。
深く考える気力すらなかったから、従っただけだろう。
「おっし。それじゃ行こう。これから山道を登るわけだからな、気を引き締めろよ」
「へっ。普段から足は鍛えているボキにとってたいしたこと無いもんね〜」
そして、三人は坂を登り始めるのだった。

旅館にたどり着いたのは、すでに日が傾いて赤くなり始めたころだった。
「よ、ようやくついたのか……?」
「足は鍛えているんじゃなかったのか?」
「う、うるせー。寒さで足がついて来なかったんだい!」
「……どうでもいいから、中入りません?」
「うむ、そうするか」
旅館『雪柱ゆきばしら』と書かれた表札というか、板を見ながら引き戸に手をかける。
開けると、玄関があって廊下との間にまた引き戸があった。
「なんで中にも引き戸が?」
「防寒対策だろう。玄関から寒い空気が流れ込むのを阻止すれば暖を余計にたかなくてすむ」
宗也が靴を脱いで奥の引き戸を開ける。
「すいませ〜ん」
「あら、宗也君。よかった、日が暮れないうちについて」
奥から出てきたのは、いかにも旅館の人っぽい着物をきた女性。
綾菜あやなさん、お久しぶりです」
「お久しぶり、宗也君。そこじゃ寒いでしょう? 早く中に上がって下さいな」
二つ目の戸をくぐり抜けると暖かい空気が三人の体を包みこんだ。
「自己紹介しますね。この旅館『雪柱』の女将をしております、阿部綾菜と申します。よろしくおねがいします」
おっとりとした口調で言う。
「そういえば博人君にはちゃんと自己紹介してなかったな。長谷川宗也だ、よろしくな」
「ボキは山田次郎でぇ〜〜すっ! よろしくお願いします、綾菜さん!」
目を輝かせながら軽ノリ男、次郎が言った。美人に目が無いらしい。
「えっと、青野博人って言います。よろしくお願いします」
言って、とりあえず軽くお辞儀をする。
「お二人とも、宗也君の友達ですよね? 同じ大学ですか?」
「いえ、博人君はここにくる途中で誘ったんですよ。宿を決めかねているようだったんで」
そこで、綾菜は驚いたような顔をし、一泊置いて言った。
「……宗也君、一応今は準備休業中になっているんですけど……」
「え…?」
思わず動きが止まる宗也。
「でも、いいですよ。今回は宗也君たちにはお手伝いに来てもらっているんだし、博人君もできる範囲でいろいろと手伝ってくだされば助かりますし」
「あ…すいません、お願いします」
この時間になって、他の宿に移るという選択肢はさすがに無かった。
窓の外は、オレンジ色というより赤い光で満たされてきていた。

「本当にあってるんでしょうね、この道」
「いや、多分間違ってる」
振り返って真顔で言う疾。
…………
「こんのぉ、馬鹿疾ぇっ!」
「うわっっ!!」
いきなり振り下ろされる木刀を、すんでのところで白刃取りする。
「あらら、仲のいいこと。でも二人とも、急がないと日が暮れちゃうわよ。う〜〜、寒い」
「遅くなった理由の大半は由香子のせいだろ!」
「年上を呼び捨てするなと言ってるでしょうがっ!」
楓が力を込めると……
ゴツンッ
硬いものがぶつかる音がした。
「痛ってえぇぇぇぇぇ!」
「そういうのを自業自得って言うのよ。覚えときなさい」
「そうそう」
「だから、由香っ! あんたもあんたでちょっとは反省しなさい!」
「大丈夫だって。次はそういうこと無いわよ。過ぎたことは気にしない、気にしない」
「ああ……頭が痛い……」
「それはこっちのセリフだ!」
半ば涙目で訴える疾。
「それで、どこまで引き返せばいいの?」
「途中で横道に入るのを見逃したみたいだから、右側を見ながら戻ればいいはず」
「んじゃ、戻ろ」
由香子がすました顔で回れ右をする。
朝から大寝坊したことなど微塵みじんも気にしてないようだ。
「しょうがない、戻りますか」
楓もため息を吐きつつ歩き始めた。

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